撫養城付近の将軍塚に関することについての質問の返事の抜粋。
①撫養の林崎にある撫養城付近に、将軍塚というモノがあるそうだが、それは現存するのか?また、普通に墓と考えてよいのか?→ 撫養城のあった山は「妙見山」と呼ばれており、丘陵部の北寄りに古くから「将軍塚」と呼ばれる場所があります。平成18年3月に発行された『徳島県遺跡地図』には、「宝珠寺裏山古墳」という名称で埋蔵文化財包蔵地(遺跡)として記載されています。また、『鳴門市史 上巻』(昭和51年)の古墳時代の項にも同様の遺跡名で「(俗称、足利義稙の墓)」として記述されています。ここには、明治初年に地元民により発掘されたことの経緯が、関係資料などから転記されており、その内容から推測すると、遺跡は古墳時代中~後期の墳墓とみられます。このことから、少なくとも古来より伝承されているような足利義稙の墓には当たらないと考えられます。② ①が存在しているあるいは、していたとするならば、なんのためのモノで、それが墓だとすると、その被葬者は誰なのか?→ この古墳については、被葬者に関する記録が伝わっておらず不明です。一般的に、古墳時代の墳墓には墓碑が立てられることは無いため、被葬者の名前を特定することは難しいです。ただし、過去の発掘の際に、鉄製の刀剣や鏡の破片が出土したことも報告されているので、これらの副葬品を所有できる地位にあった、地域の豪族であることは推定できます。③ 被葬者は見当たらないと、ネット上で表記はされているモノがあるが、それは、盗掘されたのか、改葬されたからなのか、そもそもネットのデマなのか?→ この古墳は学術的な調査が行われていないため、盗掘・改葬の状況は不明です。④ ②と関連しますが、そもそも被葬者は誰なのか?足利義稙?足利義栄?それとも、將軍的な権威を持つ誰かなのか?→ 質問①②の回答に示したとおりです。⑤ 足利義稙とすれば、阿南市の西光寺には、遺髪が納められているのだが、①が義稙の真墓だとするとそれ以外の何かを納めたという記録でもないのか?→ 前述の回答の通りなので、足利義稙に関連する事象は確認できません。⑥ 足利義栄とすれば、阿南市の西光寺に、確かに墓は現存するが、義栄没後のゴタゴタを考えれば、仮埋葬したからとも読めなくはないが、そこのところはどうなのか。→ 西光寺の墓所は、もと撫養にあったものが後世移転されたものと言われていますが、撫養の墓所自体が現在は特定できなくなっています。もちろん、古墳の場所とは無関係と推測されます。⑦ 妙見山公園の、妙見神社は、義稙もしくは義栄あるいは二人を祀ったためと、現在私は考えているが、いつから、妙見神社は存在するのか?→ 妙見神社の起源については、『徳島県神社史』(昭和56年)に、義稙や孫の義栄が周防の大内氏に頼っていた過去から、この頃に守護神として受けた妙見尊星を勧進したものとの伝承が記されています。その後、四宮加賀守が撫養城を築き、一度は長宗我部元親に攻められて落城しましたが、天正13年蜂須賀家政が阿波入国後に、阿波東北の押さえとして岡崎城を築きました。しかし、城は、寛永15年(1638)の一国一城令により廃城となりました。現在の妙見神社は、天保元年(1830)に撫養林崎の豪商近藤利兵衛と旧城主四宮加賀守の子孫四宮三郎左衛門が建立したものです。なお祭神は、天御中主命・事代主命です。
鳴門市役所の皆さん有難うございました。