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すこしづつ・・・阿波公方関連。

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ひとりごと
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先日の調査したことをもとに。
足利義冬というのは、「堺公方」までは義維と名乗り、その後、義冬とした。
余談だが、足利義秋が、義昭に改名したのも、秋の次は冬だから・・・なんて言うのもどうやらあるらしい。
で、足利義稙は、細川高国と喧嘩して河内堺に逃げ、それから淡路島を転々として、最終的に沼島にいたようだ。
(沼島と言えば、水軍の根拠地で当時の要害の一つ・・・義稙築庭の庭があるそうだが・・・まだそこはわからない。)
将軍不在で管領としての仕事に滞った細川高国は、(形通りか本気だったのかそこまでは知らないが)義稙を捜索したが見つからず、後の義晴を無理矢理に元服させて、将軍にした。
ついでに言えば、義稙は淡路や沼島にいる頃には、嶋公方と名乗り、嶋公方・阿波公方譜によれば、後に阿波公方と号している。
淡路に隠れているときに細川讃州(之持かな?)に阿波に伴われたとあるが・・・。
義稙の遺体がどこに埋葬されているのかは、わからない。撫養の将軍塚(盗掘済み)か、はたまた古墳なのか神社なのか知らないがそう言うのがあるという沼島なのか。
じゃぁ阿南市の西光寺の墓は何だというと、遺髪が入ってるワケで、遺体の墓ではない。(阿波公方・民俗資料館によると)
ちなみに、ネット地図によると沼島にも西光寺という同じ名前の寺はあるようだ。
まぁ今日はこの辺で。
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