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ふ~む・・・。

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ひとりごと
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さて、阿州将裔記や、細川両家記を読んでいると。どうやら、足利義稙は殺されたんじゃないのかというような気がしてきた。
一般的には、三度目の将軍返り咲きのために、細川讃州家の方に赴いたが、当主の六郎晴元が幼少なのにショックを受けて悶死だが。どうも毛色が違う。まだ読んでる途中だが、気がついたところを数点。
:義稙の嫁の清雲院(義冬の母。先の讃岐守細川成之の娘)のせい(狂乱とか書いてある)。で、義冬と、義稙がどうも仲が悪いようで。義稙は、義高(つまり義澄)や義晴に譲位しようとまで思い込んでいた。
:その清雲院にかわって、迎えた新御台。というのが、義高や義晴の一門に繋がる女性であったというのもまた一因であるらしい。
:清雲院はその新御台に散々讒言されて、義冬もろとも修復不能な不和になってる。
:その義冬は、義稙の死後に、淡路島の志筑浦にいたところを細川讃州家の船で平島に行っている。
:義冬は、義稙の遺髪のみをもらって平島に葬っている。
まだ断定するには早すぎるが、義冬の母が細川讃州家の出で、それと不和になって、その息子の義冬でなく、他の者に譲位しようとするとなると・・・・暗殺されていたとしてもおかしくない。
今のところはそう思う。
まだ足利義稙の資料で読んでないものが多すぎるので、今はこれまでしかわからない。
ひょっとしたら、義稙の子の竹王丸とかややこしいのがどこかで噛んでいるのかも知れない。
そんな感じの話だったら面白いかなぁなんて思ってはいる。
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