今回の旅の目的は、基本的に足利義材(義尹または義稙)。
これが、一乗谷にいたはずだというのと。越中放生津にいたと言うことで、現場を見てみたくなったために企画した。
そう。この男のことである。左は騎馬像。右は束帯姿像。
将軍襲位してから一乗谷に行く当たりまでが義材。一乗谷で、ゲンが悪いからと15の名前から選んでつけ直したのが義尹。それから将軍再襲位して義稙・・・最早ワケわからん。近江坂本だの越中放生津だの一乗谷だの堺だの淡路洲本だの周防だの・・・。ほぼ西日本を流れている人である。(資料を集めるのは大変だ・・・。)
とまぁ愚痴はこの辺にして。朝倉一乗谷で義材は、ガンゾウジに入ったという。ところが、一乗谷は一度以上火の海になっているため、その場所がどこだったかもわからないと来ている。つまり、ガンゾウジは私が漢字を忘れたのでなく、朝倉一乗谷資料館の人間でもわからないのだ。
と言うことで私は、義秋御所から川向かいの盛源寺と言うことろが、そこではないのか?とひとまず問いかけてみたが、芳しい返答はなかった。冨田盛源が一乗谷にいたときと、義材がいたときは100年近く開きがあり、あとで名前や宗派が変わっていてもおかしくはないと思い問いかけてみたのだが・・・結局仮説の域を出なかった。
確かに、義秋の兄義輝を殺した松永達に担がれていた義栄の「祖父」は、義稙であって、確かに恨み骨髄に徹すであろう立場の義秋としては、その過去を抹殺させ、また、違った場所に滞在させるように要求するはずだ・・・・と思うが故に盛源寺だと思うのである。
とはいえ、私は、最初は、朝倉館とか後の義秋御所かのどちらかにいたのだと思っていたわけであるが・・・。
結局、もう少し調査が入るなどしないとよくわからないというのが、今回の旅の結論だった。
これが下城戸の一部
これが上城戸の一部
この上城戸と下木戸の間が一乗谷城の区画になる。この上城戸下城戸の当たりをこのように土塁で閉めておけば、その内側の市街や館などは不落の要害となると言うわけです。
例えば、この谷に千戸あまりの家が建ち並んでいた、一つの都会だったわけです。このような谷が二つ三つあったそうです。
全ては織田信長の一乗谷攻撃の時に全て灰燼に帰したわけですね・・・。
(西山光照寺跡石仏群)
こういうのを見ていると往時は栄えていたんだなぁ・・・と思う。
(その2は七尾やのと鉄道内の運転手との会話からの考察を主に行く予定です。)