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岐阜関係のまとめ

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旅行記
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今回もまた足利義稙(義材、義尹)紀行なのであった。翌日の桶狭間は別だけど。
基本的に、最初は日帰りで行く予定だったのだが。どうせなら桶狭間も見ようなどとなったので泊まりがけに。
そうすると時間が余るので、樽見鉄道に乗って、淡墨桜でも行ってやれとまぁ・・・・・・・・結構行き当たりばったりだった。
見聞きしたこと、道中の細かいことなどを・・・。岐阜県関係を、今回は。
淡墨桜は、小学校の国語の時間、高校の現代文の時間と、二度その話は聞いていたので。一度行ってみたかったというのは事実。継体天皇は出てくるわ、一度枯れかけたのをほぼ無理矢理若い桜の根を移植するなどして枯らさずに保っている話など色々頭をよぎっていた。
写メを見せてくれた近所の人によると。私が急坂をあがるのを見て、いつ後ろに後戻りする(それから転ける)のかと思って怖かったそうだ。そうだと思うのなら助けてくれても・・・とか、まぁどこかで思いながら、話をしていた。
この時期は当然ながら、桜の時期ではないので。売店などは閉店していて静かなものだった。
それから岐阜。
斎藤道三や義龍龍興の菩提寺や岐阜大仏その辺は、平坦な道でいいのだが。金華山の周囲はさすがに坂道が多く。ロープウェー乗り場辺りは見かねたボランティアの人かなその人が助けてくれた。そのくせ、城まで行かなかったのは、なんか悪いような気がしてる。
歴史博物館での話。
加納城というのは、中世加納城、江戸加納城の二つがあり。現在加納公園になっている加納城の下にその遺構があると言うこと。
加納城は、古地図によると、川を利用した浮城のような、たたずまいであったと言うこと、川手城や船田城は、そもそもその中世加納城の出丸のような感じで、中世加納城を頂点に、三つの城がデルタ状に配置されていると言うこと。
船田の乱は、普通教科書には出てこないが、応仁の乱を小型にして美濃に持ってきたような大乱であったこと。
川手城は、土岐の居城で、応仁の乱を避けた京都の公家さん達が避難していたので、小京都と言われるほどだったということ。
後に加納城を作るとき、川手城の土塊の一つ残らず加納城建設のために持って行ったと言うこと、金華山の岐阜城の天守(後に加納城の御三階櫓になるが後に焼失したらしい)やら館類も移築させたと言うこと。
織田信長は岐阜に九年間しかいないのに岐阜駅にその像を造っているのが違和感があると言うこと。岐阜はやっぱり全国的人気はないかも知れないが、斎藤道三だろうと。(この話で昔北大路欣也が斎藤道三のドラマやってたねぇなどという話で盛り上がってた)
川手城主としては、斉藤道三はいず、また、金華山の岐阜城には、斎藤道三はそれほどいなかった。斎藤道三は長良川の辺りに居館を設けていて、それが後に信長の館になって、今は史跡になっていると言うこと。(そのくせ、私は、見に行ってない。行けばよかったかな(^^;; ヒヤアセ)
岐阜では結構、豊臣秀吉は人気がある。しかし、徳川家康は金華山の岐阜城を壊したため、人気がないと言うこと。
足利義視や足利義材は、当時の土岐の勢力が強かったので頼ってきたのではないのか?と言うこと。(これぐらいしか得られなかった。あとこの関係の話では、私は、足利義材を調べると全国行脚のような感じになって大変だと言う話をしていたら、斉藤妙椿辺りも結構その傾向がありますよとのこと。)
結局美濃では、守護代が幅を利かせていたと言うこと。最後の土岐頼芸なんか、追われ追われて、最後はどこかの客分だし・・・という話。
土岐頼芸は、ヨリアキと読むのが一般的らしいが。ヨリノリと読む史料もあるようですね。と言ったら、いえ、ここではライゲイです。そっちが一般的であるとのこと。
帰宅後・・・ある友人から。
なんで岐阜に行くならいってくれなかった?金津園に知り合いいるのに・・・
最早絶句するしかない。どこに行っても素通りは出来ないようだな(^^;; ヒヤアセ
岐阜関係の話はこんな感じ。再訪して今度は県の歴史資料館などでもっと調べてみたいと思った。
しかし、岐阜市内の道中ずっと長良川艶歌と、柳ヶ瀬ブルースが頭の中でぐるぐると・・・・。そこまでこの二曲が好きだった覚えはないんだがねぇ。(^^;; ヒヤアセ
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