さて、義視とつきあいのあった種村入道というのは、種村視久で良さそうで・・・。
あぁまず、何でそうなったかかかんととな。(^_^;)
一色視元、一色駿河守、種村視久というのは、正覚寺合戦で、畠山政長の死と引き替えに、足利義材が帰洛したときに供奉した連中の内にいる。
と、またその前に何でこうなったか。あぁややこしい。(^_^;)
義材の奉公衆に、一色刑部少輔というのがいる。
その前に一色兵部少輔義遠と言うのがいるが、そいつはどうも、応仁文明の頃で。義材の頃ではどうもなさそうだ。
それで考えると、どうも、種村視久のことである。
と言うのは、以前購入した本の40頁に、一色兵部少輔(種村也、自以前賜一色之名字)とあっては、ほかにどうもなさそうな空気さえする。
さて、最初に戻る。
この種村入道は、種村視久でよいと言ったのは、永正10年5月3日に近江甲賀から帰洛したときに甲賀奉公衆として記載がある。(後法成寺尚通公記)
まぁ、ほとんどそれだけみたいなものである。(^_^;)
種村というのは、今出川義視よろしく、地名か何かだと思っていたが、それがどうも違うと言うことがなんとなくわかってきた。
それだけでも、収穫である。
とりあえず、この時期の一色刑部や兵部などが色々入り組んでいるので、ややこしい。(勝手に私がドツボにはまっているんだろうが(笑))
まぁ、今回は、この辺で閉じとくか。(^.^)