2010年8月27日の話。
桶狭間の戦い
桶狭間の古戦場はふたつある。
しかし、その双方に共通するのは、山を下ったところにあると言うこと。
豊明市の古戦場の方は、明治9年だかの造りとはいえ、義元の墓があり、その付近の高徳院では、歴史資料館のようなものがあって、その伝説を継承していることを考えれば、それで正しいのかも知れなくないとは思う。
緑区の古戦場の方は、削られて8メートルほど低くなったという桶狭間山などがあるとはいえ・・・。最近無理矢理作った感も否定できないところにある。
その1
とはいえ、私が、緑区の方から、中京競馬場前方面に行くとき、緑区の言う「桶狭間山」から、朝鮮学校の方に抜けて中京競馬場前駅方面に下っていったのは、すでに書いたとは思うが、それから考えると、どう桶狭間山を下るかの差異で、どう史料を読むかの差でしかないと思う。
それで、当時の地図を見ると、桶狭間の西には「潟」があった。それから考えると、あの桶狭間山の辺りは、宅地開発されている割に、結構急坂で入り組んでいて、思ったより、現在の建築物をのけて考えると見晴らしがいいようにも思えた。(つまり、今川からは視界が開ける高地で、織田側からは、今川の動きを察しやすい。)
また、丸根鷲津は陥落したとはいえ、いまだ大高は半ば孤立状態であることを考えると・・う~む。
その2
なんで大高に行く必要があったかというと。大高は、要害の山城であるからで。そこまで急進しなかったのは、桶狭間山の方が、先も書いたとおり。見晴らしがよいからであろうからである。(三国志演義で言えば、定軍山の隣の高山みたいなものか。)ただし、大軍を駐屯するには手狭なので、大高に移動する必要があったんだと思う。そうでないと複数回も、孤立していると言える大高に兵糧入れをしないだろう。
また、織田軍の単発攻撃で足止めを喰らっていたとの記述のある史料の存在を見る。と、結果的に釘付けにされていたのかも知れない。
その3
それから考えると、義元は、大高に入る移動中、落雷(そういう風に書いてあったと思う)なりにあい。また、山を下ったため。織田軍の動きが狭間を構成する山によって、壁(鳴海辺りから桶狭間方面に行くときに、その山登りで苦労したからそう言うのだが)に遮られ。要は不意を突く格好になり、義元は討ち取られたという方が自然だという私的な結論に達した。
信長の方は、鳴海城と対峙しているはずの善勝寺砦や中島砦から。それこそ今で言う鳴海駅から左京山駅、有松駅を抜けて、山道を抜けていったから。義元より兵が少なかったから、良かったんだと思う。ただし、動きが取りやすいという線で。
それから考えると、緑区でも豊明の方でも桶狭間古戦場というのは、信長が向かったとするならば、わからなくもない場所になるわけで・・・。(緑区の方は有松駅の南方向だし、豊明の方は、有松駅の東方向。要はどっちに行くかの差なのである)
ま、事実はどうあれ、こうやって考えながら道中を行くのもいいことなんだ。とは思う。
2010年8月27日の話。