PR
スポンサーリンク

2021年7月23日回顧録③ #臼杵市歴史資料館 と、#臼杵駅 に戻るあたりまでの話。

スポンサーリンク
ひとりごと
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

さて、臼杵市歴史資料館に到着した後からの話。
館が開いてるかとか、他県民お断りとか言われやしないかと思って結構気になっていたが・・・。その辺は大丈夫だった。
入館時に、記名と連絡先などを書いてくれと言われて書いたくらいで。
手帳の効果なのか、入館料を払った覚えがない。
で、受付でちょっと話をしてから、館内へ。
阿波公方研究会的には、大内との関連をと言いたいところだが、あんまりなく、かといって無視できるほどでもなく…。

結構、臼杵の古代から大友時代、江戸になってからと、展示がそこそこ充実してる感じだった。
で、最後にトイレに入って出て、出口で、12:29分くらい。
館を出る予定時間が12:30くらい。(乗車列車の時刻が13:39。)
そこで、館の人が、詳しい人いますけど、話しますか?と。
私は断った。1分じゃ無理!ということで。実際そういった。そして、2~3質問を書きつけてと思っても、それにしても時間がない。

そうしたら、様子見に来たのか、学芸員氏が出てきて。
どうせならということで、こんな話を・・・。(細かい枝葉の話は、この場では省略。)
・二階崩れの変は、大友氏の騒動だけど、その一因に、足利義稙が関係あるのではないのか?実際大友義右が、義稙の上洛時に供奉しているし。(当然これについての宗麟無関係説にも触れながら話した。)
のちに、大友宗麟が将軍義晴に大内の家督継承を求めて許可されていることを見るに、宗麟は義晴派だったから、変になったのではないか?

・丹生島城の丹生は、ロマンス語圏でいうニウ=新しいではないのか?
こんな感じで。よく一分以内で話せたな。(;^_^A

一つ目に関しては、まだ研究が深化してない部分に触れられていることもあり、即答はできない。大分の図書館で聞いたほうがよいとのこと。
二つ目については、丹=水銀というかあかながねというかそれの産地ということで丹生島ですと。実際に多々良川というのもそばに流れてますしと。
その多々良というのも、(多々良)大内の家督継承ということで、正当性補強のためにその多々良川って名前にしたのでは?
と問い返すと、ここでは即答できないと。

このあたりで、やっぱり一分じゃ無理!と館の人に。
あ。本当にそうだったのねという顔をされていたのが思い出される。

ひとまず、次回以降、再問答ということで名刺を学芸員氏に渡して、館を出た。
影で地図を確認していたら、館の人が、いかがなさいまいしたか?と。入館時の滝のような汗の影響で、脱水になってやばいのかなとでも思ったらしい。体調は大丈夫ですからということで、丁重にお礼をして別れ、駅に向かってスタート。

その後、行きとは、ちょっと違うルートで、今度は、臼杵津久見警察前を通る感じで。要はこの日都合三週目になるかと思うくらいの臼杵城を見物する形で、13:15分ごろかな。臼杵駅に帰着。
ちょっと早く着いた。もう少し、ゆっくり資料館にいてもよかったかなというくらい。
でも。駅の待合室で休めたのは大きかった。
この後、この駅での乗車以降の話は、次回以降にします。(⌒∇⌒)

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました