山口行って参りました。
阿波公方の関連で、色々と知的好奇心を満たすために。
(この頃は足利義稙は義尹と名乗っていましたが、義稙で通します。)
とりあえず、
山口県立歴史民俗資料館
ここでは、その時代の専門がいないと言うことで、「わからない」と言うことだった。
と言うことで、館内展示を見て辞去。
その際、山口県文書館に行けば、何かわかるかもと言うことでそちらに。
山口県文書館。
図書館の三階。
足利義稙が居たという「小原館」について質問。
結論。わからない。
理由:専門の研究者が居ない。足利義稙に着目されたのも、大内御膳のレシピ発見というのがあったからで、それ以上はわからないと言って良いとのこと。山口では、基本的に、毛利(幕末毛利も)と大内がメインのようだ。
とはいえ:小原館の小原は、人名なのか地名なのかと食い下がって聞いた。
人名としては、小原中務丞隆名と、小原安芸守隆言の二人があるが、その館というのは史料として見あたらないからわからない。
地名としては、JR山口線の矢原駅の南と北の方の山奥に小原という地名はあるが、山の方に将軍家を入れるとは思えないから消去して良かろうと言うこと。かといって南の小原はどうかというと、将軍が来たという伝承がない。つまり、どうたどっても「わからない」と言うこと。
では、他に足利義稙はどこにいたのか?:史料に「御屋敷」と言うのがあり、それを史料やら何やらをつきあわせて考慮すると、現在の陸上自衛隊の山口駐屯地内に、上屋敷、下屋敷という地名があり、そこがその場所ではないのか?ということ。
言うまでもなく、大内は、のちに滅亡しているため、わからなくなっているものが多いとは言え・・・もう少しどうにかなぁとは思った。足利義稙の山口入りはともかく、その後の足利義冬の山口入りについては、大内滅亡後であるため、専門的に調べる人がいれば新発見もあるのだろうが、現在では、あぁ史料にありますなぁの域を出ないようだ。(要は、まるでわからないと言われている)
最後に、明応8年末に足利義稙が大内義興を頼って山口へ・・・と解釈できるように私の持参した史料にあったが、即座に否定された。
その前に柳井で越年しており、それはウソだとしか言いようがないとのこと。それ以前に表記の仕方が謎、同行したのか、手紙を送った程度なのかわからないのが余計にそう言わせる。という言われ方だった。
私としては、山口でわからないなら、どこでわかるのか?まさか国会図書館に入り浸れとでも?
と言う感想を持った。
追伸:
足利義稙は、山口に入ってからも、今で言う防府の方に遊びに行ったり、自分の屋敷から、将軍復帰祈願を家臣に代参させたり、結構細かいことは、よくやっていたようだ。
結局義稙は、将軍を廃されたと言え、本人にその廃されたつもりが全くなかったといえるのかも知れない。