http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080609-00000054-zdn_n-sci
例えば、こう言うのがある。
「破壊すべき俚諺」
▲按摩に眼鏡
これは、按摩は大概盲(めくら)であるから、眼鏡などは必要ないと云ふことを云ったものであるが、今日では一種の美容術として盲按摩(めくらあんま)に黒眼鏡をかけさせその牡蠣の身のやうな嫌らしい眼玉を隠すことになって居る。
とある。
(大阪滑稽新聞 明治四十三年 第五十一号)
現在でも言葉として差別表現と言われかねないが、これはその表現をすることによって、その差別を表面から受け止めようとしているととれないだろうか?
いたずらに差別表現と云うことで、タブー視し、目をそらし、逃げることが本当に良いとは思わない。
例えば、放送禁止と言うことは、放送の上で、差別的な用法で使用していたから禁止にしたんだろ?
何もかも十把一絡げに言葉を使用しないことによって、それから目を背ける。
それが本当に差別問題に取り組んでいると言えるのであろうか。
心平等といえども事に差別あり。差別の中心はまさに平等たるべし (契沖辞世)
行き着く先はこれじゃないのかな。
早いよ。逆鉾・・・。