昨日の畠山順光の話。
調べねばならぬと言うことで、とりあえず、平島公方史料集を撮りだし、それで調べてみた。
それによると、その本人はどうも、畠山義英のように書いてある。
と言うことで、少々検索したら、「畠山美濃が大永二年に薨ず」等言うことで、この畠山美濃が畠山義英であるとか言って断定し、それで良いかのように書いてあるようだ。
それならそれで良いんだろうが、こっちの資料を見ていると、どうもあやしくなってきた。
と言うのは、先日、一乗谷の史料館で購入した「越前・朝倉関係年表」(本探すのはめんどくさいのでこれにした)
によると、
まず、
明応6年に一色政具<式部少輔>との記述がある。
これで、他に探すきっかけにしか過ぎないが、このままだとすると他に誰だとなるし、
また、
永正8年には、8月16日「足利義尹、細川高國・畠山義元・同義総・大内義興・吉良上杉勢とともに丹波にくだり(以下略)と、拾介記などを引いて記述してある。
となると、畠山義元、義総、義英、義堯あたりが候補者になると思う。
まだ、他にも調査は必要だが、だいたいこの辺で絞られてくるような感じもしてきた。